以前ツイッターで、批評家東浩紀の著書『動物化するポストモダン(以下動ポモ)』がいかにダメな本か、という話をし、本物川さゆりさんにまとめを作っていただいた。
山川賢一の『動ポモのどこがクソなのか大会』
さらに、樫原辰郎さんに撮影・編集をお願いし、ぼくがホワイトボードの前でしゃべる、という形で、別の観点から動ポモを批判する動画を作成した。
山川賢一の動ポモ講義
その①
その②
その③
今回の記事はその続き……というか、落穂拾いみたいなものです。
〈大塚VS東〉
大塚英志と東浩紀の対談集『リアルのゆくえ』には、〇一年から〇八年にかけて行われた四本の対談が収められている。まずは〇一年の、大塚の発言からみてみたい。
……まあおたく産業でおたくが気持ちよく引っかけられてることに水差すのは無粋かもしれないけれど、それが別の水準、たとえばやっぱり国家には権力システムはあるわけでしょう。それは自分が認知する、しないというレベルでは済まないと思うんだけど、そこに対する問題設定が見えてこないんだよね。(『リアルのゆくえ』、p25)
東によれば、「動物化」したオタクは、作品に「萌え要素」の「データベース」を求めているだけであり、作家の意図だとか、企業のマーケティング戦略などには無関心である。そして東は、こうしたふるまいがアニメやゲームの消費にとどまらず、ポストモダンの人々の生活態度すべてに及ぶことを匂わせてもいた。すると、もし東のいうとおりなら、ポストモダンの人々は、たとえば行政や立法の背後にも政治的な意図をみない、ということになり、ポストモダンの人々は権力に操られるばかりの存在となるのではないか。この問題を放置していていいのか。引用部で大塚が東に問うているのは、そういうことだ。
しかし東はこのとき、複雑な現代社会に権力者の意思を見出そうとすると陰謀史観になってしまう、だから社会システムに抗するのは難しいとくりかえすばかりだった。
大塚:でも統一的な意思を概念としてみたら、権力ということになるわけでしょう。するとやっぱり「見ない」ことが東くんの前提になるわけだよね。
東:強引に意思を見出すと陰謀史観になる。自分がずっと見られているという監視妄想にも近くなってくる。(『リアルのゆくえ』、p32-33)
大塚はここで、いかに正確な把握が難しかろうと、やはり立法や行政の背後にはなんらかの意思が働いているはずだから、東の議論は、そうしたものから目を背けることを肯定しているのではないのか、と問うている。東はそれにたいして、現代の権力は捉えがたいものなので、その背後に誰かの意志が働いていると考えると陰謀史観やパラノイアックな妄想に陥ってしまう、と答えているわけ。
〇七年の対談では、二人の対立はより激しいものとなる。東はここで「オタクたちが楽しく遊べる遊び場をどのように維持していくか(『リアルのゆくえ』、p188)」が現在の自分の関心であると述べた。「遊び場」というのはもちろん、「動物化」したオタクたちが政治や社会にとくに関心を持たず生きていくような社会を指しているのだろう。たいして大塚は「君が言っていることっていうのは、読者に向かって、君は何も考えなくていいよと言っているようにぼくにはずっと聞こえるんだよね(『リアルのゆくえ』、p211)」と東を批判している。
〈安全な権力、危険な庶民〉
今や忘れられ気味だけれど、東日本震災より以前には、東周辺の論者たちは、政治的意識にめざめたり権力を批判したりするのは危険なことであり、現状にひたすら適応するのが良いのだ、とさかんに主張していた。先述したように、東の『動ポモ』は、政治とか社会とかいった「大きな物語」に興味を抱かず、萌え要素で欲求を満たして生きるのが現代風のライフスタイルだ、と主張した本である。じっさい、一時期の東は選挙を行うことさえ疑問視していた。
(前略)ぼくは最近、選挙ってそんなに重要なのか、とよく考えるんですよね。そもそも投票権の行使と言ったって、三年に一回、あるいは四年に一回、お祭りをやるだけですし。(『リアルのゆくえ』、p239-240)
この点は宇野常寛も同じだ。震災前の彼は、ビッグブラザーは死んでリトルピープルの時代が来たと述べていた。平たくいえば、ビッグブラザーとは「危険な権力」のことであり、リトルピープルとは、「政治的動機から他人を傷つける、危険な庶民」のことだ。つまり、いまや「危険な権力」というものはなくなったのだから、政治や社会に興味を持たず〈いま・ここ〉に充足して生きるのが正しい、うかつに政治的意識を持つと、あなたは人を傷つける「リトル・ピープル」になってしまうだろう、というのが、宇野の主張だったわけだ。
しかし、なぜ権力は今や安全なものになったのか。人々が政治に関心を持たないなら、誰が政治を行うのか。こうした点について、宇野はこう述べている。
……この30年の間にビッグ・ブラザーは壊死していった。冷戦は終結し、「歴史の終わり」がささやかれ、不可避のグローバル化は国民国家という物語に規定される共同体の上位に、資本と情報のネットワークを形成した。そしてネットワークは「人格」をもたず物語に規定されない価値中立的で非人格的な「環境」に過ぎなくなった。(『リトル・ピープルの時代』、p58-59)
どうもこの引用部によると、人格を持つがゆえに権力を暴走させかねない「ビッグ・ブラザー」は死に、今後は「非人格的」であるがゆえに「価値中立的」な「ネットワーク」が自動的に社会を運営してくれるので、人々は権力を警戒したり社会のことを考えたりはしなくてよくなった、というのが宇野の考えらしい。じゃあその「ネットワーク」はどのように従来の権力を代替してくれるのかというと、具体的な説明は一切ない。
東の議論も、結局は宇野と変わらない。宇野が、これからは「非人格的な」ネットワークが社会を運営してくれる、というところで、東は、現代の権力には「意思を見出す」ことができない、といっているだけだ。東の、権力に警戒心を抱くと監視妄想に陥ってしまう、という主張も、宇野の、政治的意識を持つと「リトル・ピープル」になって人を傷つけてしまう、という主張とほぼ変わらない。
〈歪曲されるレッシグ〉
では、宇野や東のこうした説は、なにを根拠としているのか。少なくとも大塚との対談で東が主に援用しているのは、ローレンス・レッシグの著書『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』である。
東は同書を参照しつつ、「法」と「コード」という二つの権力のあり方のちがいについて説明する。インターネット利用者は、「コード」によってつくられたネット内環境の法則に支配されざるをえない。よって「コード」は一種の権力を持つといえる。しかし東は、立法者からの命令である法律による権力とはちがい、「コード」の権力には「命令する明確な主体がない(『リアルのゆくえ』、p20)」、という。
警察的な権力(山川注:主に法的な権力を指している)は、相手が見えるので、そこに反抗して乗り越えるという弁証法を働かせることができる。けれどもインターネット的な、もしくはシステムに書き込まれている「見えない権力」では、そうした弁証法自体を働かすことができない。(『リアルのゆくえ』、p21)
よって「コード」の背後に権力の主体を見出すことはほとんど不可能ということになってしまう。こうした、システムそのものによって人をコントロールする「見えない権力」はインターネットのみならず、いまやさまざまな領域に広がっているというのが東の立場だ。
この主張は、どこまでレッシグに沿ったものなのか?レッシグは『CODE』で、人工的な環境による人間行動のコントロールを「アーキテクチャによる規制」と呼んでいる。
レッシグによると、アメリカの地方自治体はしばしば、人種の分離を維持するためコミュニティ間に横断しにくい高速道路や線路を敷設している。これは典型的な「アーキテクチャによる規制」だ。
そしてレッシグも東と同じく「アーキテクチャによる規制」は権力行使の主体を糾弾しにくいし、コントロールが行われていることに気づかれにくい、という。
ここで政府は間接的に、実空間の構造を利用して規制を行い、目的を果たそうとしているけれど、ここでもこの規制は規制とはわからない。(中略)明らかに非合法で非難の多い規制と同じ便益を得ておきながら、そんな規制があることさえ認めなくていい。(『CODE』、p175)
またレッシグは、環境のすべてが人工であるインターネットの世界では、こうした「アーキテクチャー」の権力はより増大するだろう、とも述べている。ここまでは、東とレッシグの主張内容は、だいたい同じだ。
ただし、レッシグの話はそれで終わっているわけではない。『CODE』は、インターネットの登場によって今後さらに深刻になると予想される、「コード」や「アーキテクチャ」の権力の暴走をいかに防ぐか、という問題を論じた書物でもあるのだ。
このコードが法である限り、制約条件として選択された構造がある限り、それがどう構築されて、その制約を定義するのが誰の利害かについて、われわれは心配すべきだ。(中略)もしコードが法なら、立法者はだれだ?コードに組み込まれる価値観はなんだ?(『CODE』、p376)
レッシグは、「コード」は法律と同じく、人が人を制約するための道具でもあるのだから、その制定者や意図をはっきりさせねばならない、と述べている。権力側の意図を見出そうとしても監視妄想に陥るだけだ、という東の主張とはだいぶちがう。
東は大塚にたいして、自分の主張を正当化するためにレッシグを援用しているが、皮肉なことに、本来のレッシグの主張は、むしろ大塚に近いのだ。たとえば、東がこの対談で「コード」の権力はあたかも自然環境のように感じられるので抵抗するのが難しいと述べたのにたいし、大塚は「月にでも行かない限り変わらない自然の法則と、誰かが任意に法則が変えられるネット社会は、明らかに違う」のだから「『自然』モデルを持ち出して社会システムに従順になりすぎるとまずい」のではと疑問を呈している(『リアルのゆくえ』、p31)。じつはここで、大塚はおそらく自分でも知らずに、レッシグと同じことを述べているのだ。
天性。自然。本質。生来。そういうもの。この種のレトリックは、どんな文脈においても疑問視されるべきものだ。そしてここでは特に疑問視されなきゃならない。サイバー空間こそまさに、自然の規制がおよばないところなんだから。サイバー空間こそまさに、人工的に構築された場所なんだから。(『CODE』、p44)
もちろん東は、この対談でレッシグのそうした面にはまったく触れていない。この手口を使えば、じっさいには誰も主張していない突飛な説にも、いくらでも大家のお墨付きを与えることができるだろう。大塚は興味深いことに、〇七年の対談では東にこう問いかけている。
全部に傍観者でいられる当事者で、それこそ俺には関係ないって言えるような思想がポストモダンなわけ?デリダなわけ?(中略)だから、あなたの言うポストモダンがそうだとしたら、ポストモダンって本当にそういう思想なの?(『リアルのゆくえ』、p213)
大塚は東の、こうした面での不誠実さにうすうす気づいていたのかもしれない。