2014年9月23日火曜日

2014年10月4日夜 虚淵玄ツイッター討論会開催!!

本日(10月4日)、午後7時~午後11時、『鬼哭街』Fate/Zero』『魔法少女まどか☆マギカ』『仮面ライダー鎧武』
などなど、数々の傑作で知られる虚淵玄さんの作品について、
『Fate/Plus 虚淵玄 Lives 〜解析読本』
のライター陣が、10月4日の夜、ツイッター上であーだこーだと語る会を開きます。題して、
「虚淵玄の特徴、あるあるを探せ!!」
虚淵玄さんの作品には強烈な個性がありますが、その本質はなんなのかを探ってみるのが今回の趣旨です。みなさん、どんどん虚淵さんの特徴をあげていきましょう。
誰でも自由に参加できます。興味ある方はぜひ様子をのぞいてみましょう。まどマギしか観たことない人も、エロゲー時代しか知らない人も大丈夫。あなたの目撃した虚淵玄について語ってください!!
タグは #udokuhon です!!



飯田一史 @cattower 
稲葉振一郎 @shinichiroinaba 
井上雑兵 @i_noue 
奥村元気 
 樫原辰郎 @tatsurokashi
藤田直哉 
 
の諸氏と、ぼく、山川賢一 
 が参加予定となっています。よろしくお願いします!





2014年4月12日土曜日

甲虫先生との論争について

 ぼくが社会学者である(らしい)甲虫太郎氏()と論争しているさい、かなり無茶な理屈を強弁された。しかし、どこが無茶なのかは論争をいちいち追わないかぎり第三者にはわからないだろうし、当の甲虫太郎氏に、この論理オカシイですよね、と指摘しても、彼は都合の悪い話をスルーするので埒があかない。しょうがないから、もうこの論争は終わりにしよう、と思っていたのだが、ご本人からこんなリプライが来たので、堪忍袋の緒が切れた。

いやいや、まさにそれと同じ「男二人連れで外を歩くだけで…」という所が異性愛と同性愛のダブスタ、同性愛差別の核心部分なんですよ。これは萌え云々からはスピンアウトする別の話ですが、しんかいさんは論客なのですからそのあたりは是非押さえていただきたく。

 お前プロとしての自覚が足りないぞ、というわけだ。現在締め切りに追われまくっているのでこんなもん書いてる場合ではないのだが、あまりにも腹が立ったので書いておく。急ぎだから乱文になるだろうがその辺は勘忍して下さい。
 ことのおこりは、ぼくがツイッターで次のように発言したことだった。

山:少なくとも萌えアイコンのオタキモいっていうのは、性差別批判でもなんでもなく、男が女性のイメージまとってるのはキモいというマチズモから来るものではないのかしら

すると甲虫太郎氏()から次のようなリプライが来た。


リンク先にあるのは、彼自身の次のような発言である。

甲:ツイッター等のプロファイルアイコンで、男性が例えば美少女キャラを使う文化って、国際的に見ればかなり特殊なモノじゃないかと思うのだがそうでもないのかな?
なにせ、己の性的ファンタジーを24時間フルタイムで当然に表出する文化って、必ずしも自明だとは思わないほうがいいと思うんだよね。

甲:というのは、いわゆる表現規制反対派の(例えばフェミニストの批判に対する)過剰反応や逆ギレって、こうした性的ファンタジー垂れ流しが大手を振って許され&自明視されている環境や文化と決して無関係ではないと思うので。 むしろ自分たちのほうが特殊なんだと思うほうがたぶんいい。


ぼくは以前にもこれらの発言を見ていたけれど、喧嘩するのもめんどいのでスルーしていた。しかしわざわざリプライまでされれば無視もできない。そもそもぼく自身が美少女キャラアイコン(アニメ「ポポロクロイス物語」のヒロイン、ヒュウ)の使用者なので、この意見には若干腹も立つことだし。そこで次のように応答した。

山:特殊な人間だったらキモい扱いしていいんですか。こりゃまいったな。

山:だいたい性的ファンタジーってなんですかね。ぼくがヒュウ様とセックスしたいと思ってるというんですかね?

山:このアイコンのキャラにそういう意味で欲情したことはないが。アイコンのキャラにたいしてどういう感情を持っているのか容易にわかるつもりでいるのは見下しているからではないですか

山:だいたい、男性がこういう男になりたいとか、女性がこういう女性になりたいとか思ってお洒落したりするのも性的ファンタジーの表れだと思うけどね

山:ヌードの女の子とか、性的な表情をしてる女の子をアイコンにしてるとかなら顰蹙を買うのもまあわかるけどね。大半の萌えアイコンはそうじゃないですよね

これに対する甲虫氏の返答は以下の通り。

甲: その問題についても言及しています。

リンク先の発言は次のようなもの。

甲: この問題、叩かれてるのは(見られる)「対象」ではなく、見る側の「まなざし」なのだということがどうにも飲み込めない人が結構いるんだよね…。

甲:児童ポルノ問題だってそうで、「子供の裸」がそれ自体として本質的にエロいわけじゃなく、それをエロとして見るまなざしが問題とされてるわけで。

甲:とりわけ表現規制反対派に、対象そのものがエロい(猥褻)か否かの問題へとすぐに議論を還元したがる人が目立つのは非常に痛い。 そんなことよりまず自分の顔を鏡に写してじっくり見てみるほうがよほど生産的

甲:もっとも、「(見られる)対象」ではなく「まなざし」自体を対象化するという流儀は社会学のディシップリンとしちゃ至極当たり前と言っていいのだけど、そういうトレーニングを受けてない人には何を言ってるのかさっぱりわからんという可能性は確かにないではないかもね。

甲虫氏は、一時期物議をかもした、女性メイドロボの描かれた人工知能学会の表紙についても次のようにいっている。

甲:だから人工知能学会表紙に話を戻せば、「それ自体」は特にエロくもないメイドロボの向こう側に、「まなざし」を見て取るトレーニングを積んだ人間からすれば(社会学屋だけとは限りませんよ;為念)、その絵にハァハァしてる大きなお友達が透けて見えるわけですね。それが学会誌の表紙なのはまずいと。

これについては、さる方からツイッター上で、あの表紙絵がフェミニストから批判されているのは、女性と家事労働者を結び付けるイメージだからとかそういう理由で、ハァハァがどうなんていわれてなかったんじゃない?という指摘があった。これはぼくもその通りだと思う。
 これらの発言にぼくは、次のように応答した。

山:ようするに、「いやらしい目で見てるんだろう、お前ら!」という決めつけじゃん。その決めつけこそ見下しなんじゃないのと言ってるんですけど

山:もちろん美少女キャラを性的な目で見てる人はいるだろう。しかし、女性のアイドル、歌手、俳優のファンである男性もたくさんいて、そのなかには性的な目で対象を見てる人もいるでしょう。だからといって「僕〇〇ちゃんのファンなんです」「あーその子で抜いてるのね」なんていうのはセクハラだよね

山:じゃあなんで萌えキャラのファンには同じことを言ってもいいと思うのか、その「まなざし」を問題視してるんですよぼくは。

山:だいたいこの人の論理だと彼女と二人連れで外とか歩けなくねえ?あーそれは性的なファンタジーじゃなくて現実的な相手だからいいのか。

山:するとやはり「二次元に欲情してるのはキモいから現実の異性とつき合いなさい」といってるだけなのでは。

山:まあ甲虫先生のはキモいからと言って否定はしないがキモいと思われるのは一理あるしそれを自覚すべきだみたいな話なのでそれならまあいいかとは思った

山:しかし、さっきからスカイプで話してるぼくの彼女が、アイコンのキャラを性的な目で見てるとか勘ぐる人のほうがセクハラだしキモい、と言ってるんですが、ぼくはその意見には一理あると思うし、甲虫先生もその辺自覚したほうがいいのでは、とも思いますね。

 さて、ここまでの甲虫氏の発言は、賛同は出来ないが、理屈としてそれなりに理解できるものだった。無茶な強弁が始まるのはここからである。女性からキモいと言われてるよ、とぼくが煽ったせいで逆上したのかもしれない。しかしこちらとしても特殊とか鏡に顔を映してみろとか社会学的ディシップリンを知らないとかさんざん言われているのだし、反省はしない。とにかくその強弁をここに引用してみる。

甲:(性的ということに関する異性愛と同性愛のダブルスタンダードを想起させるやりとりだわね。異性愛は表出してもエロくない領域が認められるのに対して同性愛は全面的にエロと同一視されるというアレ。)

このしんかいさんの彼女の発言にも、まさにこの問題が内包されていますね。 萌え絵問題のクローズアップが期せずして異性愛主義に埋め込まれた無意識/イデオロギーのあぶり出しになっているという。

 ぼくは最初、彼が何をいっているのかまるで理解できなかった。なんで他人の内面をやたら勘ぐる人のほうがキモいという意見が、「異性愛主義に埋め込まれた無意識/イデオロギーのあぶり出し」になるわけ?しかし彼のポストを見ていくと、どうもこういうことが言いたいらしい。

①異性愛は表出しても即座にエロ扱いはしないが、同性愛は即座にエロ扱いし、卑猥なものとみなす、差別的な思考パターンが存在している。

②ぼくの彼女が甲虫氏の意見をセクハラだというのも、この差別的な思考パターンに囚われているから。男性が萌えアイコンを使うのは疑似異性愛であるため、ぼくの彼女はそれをエロ扱いすることを嫌悪するのである。

 ①の主張は正しいが、それを悪用して導き出された②の結論はすごい屁理屈だ。ふつう①のような主張は、同性愛を猥褻扱いするな!というためになされる。つまり問題は、異性愛の表出を即座にエロ扱いはしないことにあるのではなく、同性愛ばかりをエロ扱いすることにあるのだ。
 よって、ぼくの彼女が同性愛にたいしてどういう接し方をしているか知らないにもかかわらず、異性愛にたいする態度のみをもって差別的と断じるのはむちゃくちゃと言える。
 一応断っておくと、甲虫氏はその後意見を若干軌道修正している。しかしこの問題はまったく解決されていない。

甲:で話を萌え絵に戻せば、その背後の性的関心を「見ないことにする」、異性愛主義と類似した何らかの論理なりイデオロギーなりがオタク文化の中に定着してるってことなのだろうね。 そして、それを共有しないがゆえに「見えてしまう」外部の人間と摩擦を引き起こしているというのが大雑把な構図だろう。

 ここでは、オタクが性的関心をことさらあげつらわれると怒るのは、異性愛主義そのものではなく、それと類似したなんらかのイデオロギーによるものであるとされている。しかし問題が、即座にエロ扱いしない側のほうにあるとされているのは前と同じである。そりゃそうだ、甲虫氏は、萌えアイコンを即座にエロ扱いする自分の態度を正当化するためにこの理屈を持ち出したのだから。
 ぼくは彼の主張に対して、以下のように述べた。

山:異性愛と同性愛のダブルスタンダードがどうという話で、同性愛を全面的にエロと同一視するのはよくないという話になるのかと思ったら、異性愛もエロと同一視しろという話になるのか。これは予想外の展開だった

山:ぼくはゲイの友だちからもらったカヲル君のイラストもってるけど、それを見て別に性的だとかエロいとかは思わなかったけどね。単にうまい絵だからもらったので。甲虫先生の論理だとそれはハァハァしている書き手が透けて見えるエロいものなんだよね

山:同性愛者も異性愛者も、性的な側面のある愛情の対象を描いた表現はみなエロと同一視されるべきであり、それが両者を公平に扱う術だというのが甲虫先生の意見だから。

山:同性愛、異性愛、ダブルスタンダードといった用語を使い、なんとなく論争相手が差別的であり自分はそれを正す側である、という雰囲気を醸し出しつつ、じっさいにはめちゃくちゃ言ってるね

 甲虫氏は、その後もぼくの反論を無視して先の説を主張し続け、さらに深い墓穴を掘った。少なくともぼくにはそう思える。

甲:この指摘、別にしんかいさんの彼女を批判する意図はないので念のため。 ただ、異性愛者の穏やかな性的関心は「空気」のようなものとして扱われがちなので、ことさらに性的関心があると指摘すると過剰だと感じる人が多いけど、それって実は異性愛主義に固有の現象なんですよというお話。

甲:そもそも(血縁の)家族という概念じたいが凄まじく「性的」なものなのであり、家族の向こう側にはハァハァだのアヘアヘだのが透けて見えるのだが、それを恣意的に見ないことにし、むしろ見る者をセクハラか変態呼ばわりするのが異性愛イデオロギーである…とまで言えばかえってわかりやすいかな?

 この主張に、ぼくはこう述べた。

山:つうか甲虫先生は異性愛関係に性生活が透けて見えるのがあたりまえであるとおっしゃっているので、萌えアイコンの人も恋人と連れ立って歩いている人も性の対象をわざわざ表出させていることには変わらなくなり、萌えアイコンをキモいとする根拠がなくなるのではないか

山:甲虫先生が自分の言ってる通りにふるまっているならば、「えっ子供を連れ歩くんですか。アヘアヘの産物を人に見せつけるなんてキモいですね。否定はしませんが周囲の目を自覚したほうがいいですよ」というようなことを普段から人に言ってるはずだが、これは相当キモい人だよな

山:いや、ここまで極端な話をしなくても、甲虫先生の論理だと「今日は妻の誕生日なんで」という人に「お!奥さんたっぷり可愛がってやんな。むひひひ」というようなことを言う人が異性愛イデオロギーから解放され家族関係の真実を見つめる人ってことになっちゃうよね

山:けっきょく甲虫先生の萌えアイコン使用者にたいするまなざしがセクハラそのものなので、自分の態度を正当化しようと理屈をこねているうちに、セクハラ親父みたいな人を肯定する羽目になってしまったのではないだろうか

 甲虫氏は、「あなたのやってることはただのセクハラですよね」という批判に反論して、例の異性愛主義的イデオロギーがどうという理屈を持ち出してきた。「おれは異性愛主義イデオロギーから解放された真実の徒なんだ!差別的なのはお前らのほうだ!」というわけである。しかしそのじつ彼のやっていることはセクハラなので、結局はセクハラ親父を肯定することになってしまったのだ。
 ぼくが言いたいことは、これでほぼすべてであるが、多少補足しておく。甲虫氏の決定的な誤りは、異性愛をエロに直結すると反感を持たれるのは、異性愛のエロ的側面が無意識的に隠蔽されているから、と考えたことだ。
 この手の人たちは、お前には見えない何かがおれには見えているぞ、といって他人を見下すのが大好きだから、そういう欲望がついにじみ出てしまったのだろう。そして罠にはまった。
 異性愛の性的側面は、別に隠蔽などされていない。街を歩くカップルを見て「どうせこれからセックスする場所を探しているんだろう」などという輩はいくらでもいる。異性愛をエロと直結する発言がしばしば反感を持たれるのは、ただたんにマナー違反だからだ。そして、異性愛者にたいしてはこのマナーを守るのに、同性愛者にたいしては平気でマナー破りをする連中がたくさんいる、というのが「異性愛と同性愛のダブルスタンダード」の、本来の問題であるわけだ。
 甲虫氏の思考パターンは、むしろ同性愛者を差別する側のそれにちかい(ただしぼくは、オタクが同性愛者並みの差別を受けているとかいうつもりはない。オタクがマイノリティであるとは、ぼくも思わない。あくまで甲虫氏の内面のメカニズムが差別者に似ているというだけの話である)。彼はオタクにたいしてばかり、このマナー破りをしようとするからである。また、ぼくは彼が、オタクの性的関心をすべてお見通しであるかのようにいうのは、見下しているからだろうと述べたが、同性愛を差別する者が平気でマナー破りをするのも、見下しているからだろう。
 ぼくは最初、萌えアイコンがキモいと言われるのは、男性が女性の外見をまとっているからではないかと主張したが、どうもそれはまちがいだったらしい。しかし、オタクの萌えアイコンがある種の人々には逸脱的な性行動とみなされており、ゆえにキモいとされているのはたしかなようだ。

2013年11月25日月曜日

宇野常寛の論争術――蓮實・浅田批判をめぐって

宇野常寛の批評は、内容がどうこう以前にそもそも文章として読むに耐えない。しかしそういうと、「お前の読解力が乏しいからだ」と批判されたりする。バカを言っちゃいけない。日本中を探しても、ぼく以上に宇野の文章をきちんと解読できる人間は多分一人もいないぞ。ためしに、ちょっと分析してみよう。
宇野は、『リトル・ピープルの時代(以下リトピー)』の序盤で、蓮實重彦や浅田彰を批判している。今回は、この部分を扱うことにしたい。
宇野はまず、蓮實らの思想を、次のように要約した。
                                           
引用部①――宇野による蓮實・浅田の要約

この「物語批判」的な想像力には、当時日本社会に出現し始めていた消費社会のイメージが重ね合わされていた。「都市」の洗練された空間では貨幣の、情報の、そして記号の「交通」が自動発生して、大きな物語を、あるいは封建的な制度によって規定された自己同一性を解体する―。(『リトピー』、p36

これが要約として正しいかというと疑問もあるけれど、本題ではないのでここでは追及しない。宇野はもっと大変なポカをやらかしていて、それに比べたら、要約が正確か否かなんて大した問題ではないのだ。
さて宇野は、論敵の意見を要約すると、次のように批判した。

引用部②――宇野による蓮實・浅田への批判

しかし、時代の潮流は蓮實たちを裏切り、春樹(注:村上春樹をさす)を支援した。冷戦終結はイデオロギー対立の時代もまた終わらせ、ビッグ・ブラザーの語る「大きな物語」を解体する必要を低下させた。いや、ビッグ・ブラザー自体が勝手に壊死していったのだ。/そして、ビッグ・ブラザーの完全な壊死のあとに訪れたグローバル/ネットワーク化は彼らが敵視した「田舎くさい」「村落の自己同一性」をも自動的に解体した。(『リトピー』、p37

 まず「ビッグ・ブラザー」という用語を説明しよう。宇野の議論は、東浩紀の大きな物語衰退論を踏まえている。「ビッグ・ブラザー」とは、もともとはジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』に登場する独裁者のことだが、宇野は『リトピー』で、この言葉を「国民国家を支える『大きな物語』を生む社会構造の比喩(p52)」として使っている。つまり大きな物語を作り出す存在が「ビッグ・ブラザー」で、それは消滅した、というのが宇野の主張なわけだ。結局のところ「大きな物語」はなくなったといっている点では、東とそれほどちがわない。
宇野は、引用部①では蓮實らの主張を要約し、引用部②でそれを批判したわけだが、では、彼自身の考えはどういうものなのか。『リトピー』の結末近くには、次のような記述がある。

引用部③――宇野自身の考え

人々は欲望の赴くままにビッグ・ブラザーの治世を謳歌し、消費社会を実現した。そしてこの消費社会の拡張がネットワーク/グローバル化を招来し自動的にビッグ・ブラザーを壊死させたのだ。(『リトピー』、p436

おや?この主張、引用部①の、蓮實らの主張を要約したものと、よく似ていないだろうか。
ためしに、引用部①と引用部③の内容を、よりわかりやすく整理してならべてみよう。

①――蓮實・浅田の要約

「消費社会」では、「貨幣の、情報の、そして記号の『交通』」が「自動発生」して「大きな物語」を「解体」する。

③――宇野自身の考え

「消費社会の拡張」が「ネットワーク/グローバル化」を招来し、「自動的」に「ビッグ・ブラザー」を「壊死」させた。

 「大きな物語」の「解体」と、「ビッグ・ブラザー」の「壊死」はだいたい同じ意味だ。また「貨幣の、情報の、そして記号の『交通』」と「ネットワーク/グローバル化」も、そうだろう。するとやはり、二つの主張は大差ない。
ちがうのは、前者が「解体する」と現在系で、後者は「壊死させた」と過去形である点くらいだ。もっとも宇野は、この文章で蓮實らを、八〇年代思想の代表としてとりあげているのだから、当時進行中だった事態が現在は完成しているのだと考えれば、ここもむしろぴったり符合してしまう。つまり宇野の意見は、批判相手の意見と全然変わらないのだ。
なぜこんなことになったのか。その理由は、引用部②と③の内容を整理して比較すれば、すぐにわかる。

②――蓮實・浅田の批判

蓮實らの考えとは異なり)「冷戦終結」ののち「ビッグ・ブラザー」は「完全」に「壊死」し、そのあとで「グローバル/ネットワーク化」が訪れ、「村落の自己同一性」を「解体」した。

③――宇野自身の考え

「消費社会の拡張」が「ネットワーク/グローバル化」を招来し、「自動的」に「ビッグ・ブラザー」を「壊死」させた(注1)。
 
 あれれ?引用部②では「ビッグ・ブラザー」が「完全」に壊死したのち「ネットワーク/グローバル化」がやってきたと述べていたのに、引用部③では「ネットワーク/グローバル化」が「ビッグ・ブラザー」を壊死させたと述べているぞ。順序が真逆だ。
 もうおわかりと思うが、宇野は蓮實らを批判するときだけ、自分の意見をこっそり変えて、ちがいを捏造していたのである。これはひどい。
 蓮實や浅田と宇野の主張が似ているのは、宇野が彼らから影響を受けているからだ。にもかかわらず、宇野はその彼らを、アンフェアな手口で騙し討ちにしているわけである。たとえるならこれは、人に道案内をしてもらいながら、用が済んだら相手を後ろから殴り倒し金品を奪って逃げるようなふるまいといえる。なかなかできることじゃない。
 しかしより深刻なのは、これほどフルスイングな矛盾でさえ、今までだれも指摘できなかった、ということだ。ここには、たんなる宇野常寛という一個人を超えた問題が含まれている。私たち人間の読解力は、自覚しているよりはるかに低いのだ。だから宇野のような、内容をイメージしにくい抽象的な文章の場合、ゴマカシがあっても容易には気付けない(注2)。
 しかし批評界では、この手のアヤフヤな文章を読解できて当然であるかのような認識が、今もまかり通っている。こんな文章は読めないと正論を述べても、読解力がないといわれるだけだ。裸の王様である。この状況を払拭できなければ、たとえ東や宇野が失脚したところで、似たような連中は次から次へと現れるだろう。


注1:箇所により「グローバル/ネットワーク化」と「ネットワーク/グローバル化」の二つの表記がみられるが、両者は同じものを指している。

注2:ぼくが宇野の矛盾を指摘できるのは、読解力が高いからではなく、ばかばかしいほどの時間を宇野を読むことに費やしているからである。冒頭に書いたことを繰り返すが、こんな文章は、本来読めなくて当然なのだ。

2013年11月24日日曜日

東浩紀の伝言ゲーム――アーキテクチャー論に関係して

 以前ツイッターで、批評家東浩紀の著書『動物化するポストモダン(以下動ポモ)』がいかにダメな本か、という話をし、本物川さゆりさんにまとめを作っていただいた。

山川賢一の『動ポモのどこがクソなのか大会』

さらに、樫原辰郎さんに撮影・編集をお願いし、ぼくがホワイトボードの前でしゃべる、という形で、別の観点から動ポモを批判する動画を作成した。

山川賢一の動ポモ講義
その①

その②

その③

今回の記事はその続き……というか、落穂拾いみたいなものです。

〈大塚VS東〉

大塚英志と東浩紀の対談集『リアルのゆくえ』には、〇一年から〇八年にかけて行われた四本の対談が収められている。まずは〇一年の、大塚の発言からみてみたい。

……まあおたく産業でおたくが気持ちよく引っかけられてることに水差すのは無粋かもしれないけれど、それが別の水準、たとえばやっぱり国家には権力システムはあるわけでしょう。それは自分が認知する、しないというレベルでは済まないと思うんだけど、そこに対する問題設定が見えてこないんだよね。(『リアルのゆくえ』、p25

東によれば、「動物化」したオタクは、作品に「萌え要素」の「データベース」を求めているだけであり、作家の意図だとか、企業のマーケティング戦略などには無関心である。そして東は、こうしたふるまいがアニメやゲームの消費にとどまらず、ポストモダンの人々の生活態度すべてに及ぶことを匂わせてもいた。すると、もし東のいうとおりなら、ポストモダンの人々は、たとえば行政や立法の背後にも政治的な意図をみない、ということになり、ポストモダンの人々は権力に操られるばかりの存在となるのではないか。この問題を放置していていいのか。引用部で大塚が東に問うているのは、そういうことだ。
しかし東はこのとき、複雑な現代社会に権力者の意思を見出そうとすると陰謀史観になってしまう、だから社会システムに抗するのは難しいとくりかえすばかりだった。

大塚:でも統一的な意思を概念としてみたら、権力ということになるわけでしょう。するとやっぱり「見ない」ことが東くんの前提になるわけだよね。
東:強引に意思を見出すと陰謀史観になる。自分がずっと見られているという監視妄想にも近くなってくる。(『リアルのゆくえ』、p32-33

 大塚はここで、いかに正確な把握が難しかろうと、やはり立法や行政の背後にはなんらかの意思が働いているはずだから、東の議論は、そうしたものから目を背けることを肯定しているのではないのか、と問うている。東はそれにたいして、現代の権力は捉えがたいものなので、その背後に誰かの意志が働いていると考えると陰謀史観やパラノイアックな妄想に陥ってしまう、と答えているわけ。
 〇七年の対談では、二人の対立はより激しいものとなる。東はここで「オタクたちが楽しく遊べる遊び場をどのように維持していくか(『リアルのゆくえ』、p188)」が現在の自分の関心であると述べた。「遊び場」というのはもちろん、「動物化」したオタクたちが政治や社会にとくに関心を持たず生きていくような社会を指しているのだろう。たいして大塚は「君が言っていることっていうのは、読者に向かって、君は何も考えなくていいよと言っているようにぼくにはずっと聞こえるんだよね(『リアルのゆくえ』、p211)」と東を批判している。

〈安全な権力、危険な庶民〉

 今や忘れられ気味だけれど、東日本震災より以前には、東周辺の論者たちは、政治的意識にめざめたり権力を批判したりするのは危険なことであり、現状にひたすら適応するのが良いのだ、とさかんに主張していた。先述したように、東の『動ポモ』は、政治とか社会とかいった「大きな物語」に興味を抱かず、萌え要素で欲求を満たして生きるのが現代風のライフスタイルだ、と主張した本である。じっさい、一時期の東は選挙を行うことさえ疑問視していた。

(前略)ぼくは最近、選挙ってそんなに重要なのか、とよく考えるんですよね。そもそも投票権の行使と言ったって、三年に一回、あるいは四年に一回、お祭りをやるだけですし。(『リアルのゆくえ』、p239-240


 この点は宇野常寛も同じだ。震災前の彼は、ビッグブラザーは死んでリトルピープルの時代が来たと述べていた。平たくいえば、ビッグブラザーとは「危険な権力」のことであり、リトルピープルとは、「政治的動機から他人を傷つける、危険な庶民」のことだ。つまり、いまや「危険な権力」というものはなくなったのだから、政治や社会に興味を持たず〈いま・ここ〉に充足して生きるのが正しい、うかつに政治的意識を持つと、あなたは人を傷つける「リトル・ピープル」になってしまうだろう、というのが、宇野の主張だったわけだ。
  しかし、なぜ権力は今や安全なものになったのか。人々が政治に関心を持たないなら、誰が政治を行うのか。こうした点について、宇野はこう述べている。  

……この30年の間にビッグ・ブラザーは壊死していった。冷戦は終結し、「歴史の終わり」がささやかれ、不可避のグローバル化は国民国家という物語に規定される共同体の上位に、資本と情報のネットワークを形成した。そしてネットワークは「人格」をもたず物語に規定されない価値中立的で非人格的な「環境」に過ぎなくなった。(『リトル・ピープルの時代』、p58-59

 どうもこの引用部によると、人格を持つがゆえに権力を暴走させかねない「ビッグ・ブラザー」は死に、今後は「非人格的」であるがゆえに「価値中立的」な「ネットワーク」が自動的に社会を運営してくれるので、人々は権力を警戒したり社会のことを考えたりはしなくてよくなった、というのが宇野の考えらしい。じゃあその「ネットワーク」はどのように従来の権力を代替してくれるのかというと、具体的な説明は一切ない。
 東の議論も、結局は宇野と変わらない。宇野が、これからは「非人格的な」ネットワークが社会を運営してくれる、というところで、東は、現代の権力には「意思を見出す」ことができない、といっているだけだ。東の、権力に警戒心を抱くと監視妄想に陥ってしまう、という主張も、宇野の、政治的意識を持つと「リトル・ピープル」になって人を傷つけてしまう、という主張とほぼ変わらない。

〈歪曲されるレッシグ〉

 では、宇野や東のこうした説は、なにを根拠としているのか。少なくとも大塚との対談で東が主に援用しているのは、ローレンス・レッシグの著書『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』である。
東は同書を参照しつつ、「法」と「コード」という二つの権力のあり方のちがいについて説明する。インターネット利用者は、「コード」によってつくられたネット内環境の法則に支配されざるをえない。よって「コード」は一種の権力を持つといえる。しかし東は、立法者からの命令である法律による権力とはちがい、「コード」の権力には「命令する明確な主体がない(『リアルのゆくえ』、p20)」、という。

警察的な権力(山川注:主に法的な権力を指している)は、相手が見えるので、そこに反抗して乗り越えるという弁証法を働かせることができる。けれどもインターネット的な、もしくはシステムに書き込まれている「見えない権力」では、そうした弁証法自体を働かすことができない。(『リアルのゆくえ』、p21

よって「コード」の背後に権力の主体を見出すことはほとんど不可能ということになってしまう。こうした、システムそのものによって人をコントロールする「見えない権力」はインターネットのみならず、いまやさまざまな領域に広がっているというのが東の立場だ。
この主張は、どこまでレッシグに沿ったものなのか?レッシグは『CODE』で、人工的な環境による人間行動のコントロールを「アーキテクチャによる規制」と呼んでいる。
レッシグによると、アメリカの地方自治体はしばしば、人種の分離を維持するためコミュニティ間に横断しにくい高速道路や線路を敷設している。これは典型的な「アーキテクチャによる規制」だ。
そしてレッシグも東と同じく「アーキテクチャによる規制」は権力行使の主体を糾弾しにくいし、コントロールが行われていることに気づかれにくい、という。

ここで政府は間接的に、実空間の構造を利用して規制を行い、目的を果たそうとしているけれど、ここでもこの規制は規制とはわからない。(中略)明らかに非合法で非難の多い規制と同じ便益を得ておきながら、そんな規制があることさえ認めなくていい。(『CODE』、p175

またレッシグは、環境のすべてが人工であるインターネットの世界では、こうした「アーキテクチャー」の権力はより増大するだろう、とも述べている。ここまでは、東とレッシグの主張内容は、だいたい同じだ。
ただし、レッシグの話はそれで終わっているわけではない。『CODE』は、インターネットの登場によって今後さらに深刻になると予想される、「コード」や「アーキテクチャ」の権力の暴走をいかに防ぐか、という問題を論じた書物でもあるのだ。
 
このコードが法である限り、制約条件として選択された構造がある限り、それがどう構築されて、その制約を定義するのが誰の利害かについて、われわれは心配すべきだ。(中略)もしコードが法なら、立法者はだれだ?コードに組み込まれる価値観はなんだ?(『CODE』、p376

レッシグは、「コード」は法律と同じく、人が人を制約するための道具でもあるのだから、その制定者や意図をはっきりさせねばならない、と述べている。権力側の意図を見出そうとしても監視妄想に陥るだけだ、という東の主張とはだいぶちがう。
東は大塚にたいして、自分の主張を正当化するためにレッシグを援用しているが、皮肉なことに、本来のレッシグの主張は、むしろ大塚に近いのだ。たとえば、東がこの対談で「コード」の権力はあたかも自然環境のように感じられるので抵抗するのが難しいと述べたのにたいし、大塚は「月にでも行かない限り変わらない自然の法則と、誰かが任意に法則が変えられるネット社会は、明らかに違う」のだから「『自然』モデルを持ち出して社会システムに従順になりすぎるとまずい」のではと疑問を呈している(『リアルのゆくえ』、p31)。じつはここで、大塚はおそらく自分でも知らずに、レッシグと同じことを述べているのだ。

天性。自然。本質。生来。そういうもの。この種のレトリックは、どんな文脈においても疑問視されるべきものだ。そしてここでは特に疑問視されなきゃならない。サイバー空間こそまさに、自然の規制がおよばないところなんだから。サイバー空間こそまさに、人工的に構築された場所なんだから。(『CODE』、p44

もちろん東は、この対談でレッシグのそうした面にはまったく触れていない。この手口を使えば、じっさいには誰も主張していない突飛な説にも、いくらでも大家のお墨付きを与えることができるだろう。大塚は興味深いことに、〇七年の対談では東にこう問いかけている。

全部に傍観者でいられる当事者で、それこそ俺には関係ないって言えるような思想がポストモダンなわけ?デリダなわけ?(中略)だから、あなたの言うポストモダンがそうだとしたら、ポストモダンって本当にそういう思想なの?(『リアルのゆくえ』、p213

大塚は東の、こうした面での不誠実さにうすうす気づいていたのかもしれない。

2013年11月22日金曜日

大藤信郎、スプラッターとメタモルフォーシス 「日本アートアニメーション選集」第一巻の感想

大藤信郎、スプラッターとメタモルフォーシス 「日本アートアニメーション選集」第一巻の感想

 日本のアニメ史を遡って知りたい人に便利なのが 「日本アートアニメーション選集」という全12巻のDVDセットだ。戦前から70年代くらいまでの国産短編アニメをあつめたもの。価格はなんと36万円、とても一般人が買えるようなものじゃないが、図書館などには資料として置かれていたりする。
 最近、その第一巻「大藤信郎作品集」を鑑賞した。大藤は日本アニメ黎明期の巨匠だ。日本で最初にアニメがつくられたのは1917年。この年、下川凹天、北山 清太郎、幸内純一の三人が別々にアニメ映画を作った。彼らが日本アニメの創始者というわけ。大藤信郎は、そのうち幸内純一の弟子にあたる。
 大藤はかつて、世界的に著名なアニメ作家だった。そのへんの事情については、渡辺泰さんのエッセイにくわしい。

http://www.kobe-eiga.net/event/report/2013/08/post_15.php

 大藤の評価は戦前から高く、また戦後の1953年には、カンヌ映画祭に出品した「くじら」がコクトーやピカソにも称賛されたという(ところで、大藤がコクトーやピカソに褒められたという話はよく見かけるのだけれど、ソースがわからない。知っている人は教えてください)。
 で、ぼくの個人的な感想。大藤アニメ、技術的にはさすがにいろいろ古臭いのだけれど、センス的には全然そんなことはない。とくにギャグはキレッキレだ。なかでも「ちんころ平平」という犬のキャラクターが活躍する「心の力(1931)」「天狗退治(1934)」「ちんころ平平玉手箱(1936)」の三作が素晴らしかった。
 ちんころ平平が初登場するのは、この「村祭(1930)」というアニメらしい。

http://www.youtube.com/watch?v=rmQs9cKajMs



 途中に、こういう犬が出てくる↑。これがちんころ平平。この時点ではずいぶんかわいらしいんだけど、「心の力」では、主人公の団子兵衛をいじめたり、首が外れてふっとんだり、いろいろとキャラ崩壊している。



 ときおりこういう変なポーズをとったりもする↑。「マカロニほうれん荘」みたい。
 さて、「村祭」と「心の力」は千代紙製の切り絵で作られているのだが、「天狗退治」「ちんころ平平玉手箱」はセルアニメで、より自在な表現が可能となったらしい。結果、興味深いことに、身体破壊描写が増えている。そのいくつかを、ここでは「ちんころ平平玉手箱」から紹介してみたい。
 


 魚に襲いかかるカニ。



 カニたちは魚を、こんなふうに切り刻んでしまう↑。キャー、残酷!



 その結果、なんと魚はタコに変身させられてしまう。

 

 ちんころ平平のルックスは切り紙アニメ時代とはずいぶん変化し、アメリカナイズされている。このキャラクター、人格が安定せず、作品や場面によってイジワルだったり善良だったりするが、「玉手箱」ではおそろしく勝手な性格になっており、悪のかぎりを尽くす。
 


 海に潜った平平は竜宮城に入ろうとするが、魚でないため門番に追い出され、憤懣やるかたない。そこへ通りかかった一匹の魚。平平はその尾をつかむと……。



 ズボッ!!と下半身を引っこ抜いてしまう。骨格むき出しで放り出される魚。キャー!



 はぎ取った下半身を着込んで、みごと魚に化けた平平。竜宮城に向かいながら、被害者の魚に思い切りアカンベーをするのだった。性格悪すぎ。 
 こうした荒唐無稽な身体破壊描写は、「天狗退治」にもふんだんにみられる。この作品では、敵役のカラス天狗たちが主人公の団子兵衛らによってサクサク殺されていく。youtubeにあるので興味がある方はご覧になるといい。
 平平が活躍するこれらのギャグアニメはみな30年代のものだ。大藤の作風は戦後に大きく変化し、シリアスな作品が増えていく。色セロファンを使用した影絵アニメ「くじら」と「幽霊船」がこの時期の代表作だ。この二作はぼくの観た「日本アートアニメーション選集」には収録されていなかったが、「くじら」のほうはyoutubeで観ることができた。海難事故にあい、漂流する羽目になった生存者たちの醜い争いを描いた、暗い作品である。
 さてぼくは、大藤のアニメを観るうちに、一見かけ離れたものとの共通性に気付きはじめた。身体の破壊がもたらすブラックユーモア。極限状況で醜態をさらす人間たち。これってゾンビ映画やスプラッター映画がさかんに扱ってきたモチーフじゃないか。すると大藤信郎は、じつはホラー映画的な嗜好を持った人だったのかな……と最初は思ったのだけれど、もう少し考えてみると、これは大藤という個人だけの問題ではないようだ。
 アニメーションの原初的な魅力の一つに「メタモルフォーシス」がある、とよく言われる。ここでいうメタモルフォーシスとは、ようするに何かがクネクネと別のものに変形することだ。初期のアニメには、そうした面白みを追及したものがたくさんある。たとえばアニメーション創始者のひとり、エミール・コールによるこの作品。

http://www.youtube.com/watch?v=h_0B_H0FXv4

 有名なところでは「トムとジェリー」だってそうだ。あのアニメでも、トムの身体は変形しまくる。そして、こういうメタモルフォーシスの面白さっていうのは、そもそもスプラッター映画に近いんじゃないのか。じっさい「遊星からの物体X」や「ビデオドローム」は、まさしくメタモルフォーシス・ホラーとでも呼ぶべき映画だったし、「死霊のはらわたⅡ」や「バタリアン」には、「トムとジェリー」的な狂騒感がある。
 もっとも「トムとジェリー」は、暴力描写に満ちてはいるけれど、ギリギリのところでスプラッター化は回避している。トムの体はいくら変形しても元に戻るし、死ぬこともない。しかし大藤のアニメは、もっとスプラッターのほうに踏み込んでいる。切り刻まれてタコにされた魚たちはおそらく元の姿に戻れないし、カラス天狗たちは死んでしまうからだ。
 大藤以外にも、スプラッターとアニメーションの思わぬ親和性をうかがわせる戦前アニメはある。例えば西倉喜代治「茶目子の一日」のラストシーン。

http://www.youtube.com/watch?v=VNWqOUQH2Z8

 では、「くじら」にみられる人間の醜さを強調する描写と、ゾンビ映画などにみられるそれとの間にも、やはり大藤の嗜好のみには還元できないものがあるのだろうか。この点については、今のぼくにはまだ結論を出せない。
 最後にもう一つ、触れておきたいことがある。大藤のアニメはぼくに、ある作家について考えるヒントをもくれた。筒井康隆だ。
 ぼくは以前から、筒井のある点が気になっていた。彼の小説も、身体破壊ギャグと、人間のエゴイズムの醜さをしばしば描いており、スプラッター映画と共通する感性を備えているように思える。しかし筒井は、スプラッター映画が登場するはるか以前からそうした小説を書いていた。また、それらの映画に言及したこともないようだ(もっともこの点については、ぼくの知識はあてにならない。識者の見解を聞きたい)。すると、筒井文学とスプラッター映画は、まったく無関係に、似たような表現にたどりついたのだろうか?
 しかしアニメという補助線を引くと、事態はもう少し理解しやすくなるかもしれない。筒井は、「ベティ・ブープ伝」の著者でもあり、古典的なアニメに造詣が深い。彼の小説とスプラッター映画に親和性があるのは、両者のルーツの一つに古典アニメがあるからではないか。