2013年11月22日金曜日

大藤信郎、スプラッターとメタモルフォーシス 「日本アートアニメーション選集」第一巻の感想

大藤信郎、スプラッターとメタモルフォーシス 「日本アートアニメーション選集」第一巻の感想

 日本のアニメ史を遡って知りたい人に便利なのが 「日本アートアニメーション選集」という全12巻のDVDセットだ。戦前から70年代くらいまでの国産短編アニメをあつめたもの。価格はなんと36万円、とても一般人が買えるようなものじゃないが、図書館などには資料として置かれていたりする。
 最近、その第一巻「大藤信郎作品集」を鑑賞した。大藤は日本アニメ黎明期の巨匠だ。日本で最初にアニメがつくられたのは1917年。この年、下川凹天、北山 清太郎、幸内純一の三人が別々にアニメ映画を作った。彼らが日本アニメの創始者というわけ。大藤信郎は、そのうち幸内純一の弟子にあたる。
 大藤はかつて、世界的に著名なアニメ作家だった。そのへんの事情については、渡辺泰さんのエッセイにくわしい。

http://www.kobe-eiga.net/event/report/2013/08/post_15.php

 大藤の評価は戦前から高く、また戦後の1953年には、カンヌ映画祭に出品した「くじら」がコクトーやピカソにも称賛されたという(ところで、大藤がコクトーやピカソに褒められたという話はよく見かけるのだけれど、ソースがわからない。知っている人は教えてください)。
 で、ぼくの個人的な感想。大藤アニメ、技術的にはさすがにいろいろ古臭いのだけれど、センス的には全然そんなことはない。とくにギャグはキレッキレだ。なかでも「ちんころ平平」という犬のキャラクターが活躍する「心の力(1931)」「天狗退治(1934)」「ちんころ平平玉手箱(1936)」の三作が素晴らしかった。
 ちんころ平平が初登場するのは、この「村祭(1930)」というアニメらしい。

http://www.youtube.com/watch?v=rmQs9cKajMs



 途中に、こういう犬が出てくる↑。これがちんころ平平。この時点ではずいぶんかわいらしいんだけど、「心の力」では、主人公の団子兵衛をいじめたり、首が外れてふっとんだり、いろいろとキャラ崩壊している。



 ときおりこういう変なポーズをとったりもする↑。「マカロニほうれん荘」みたい。
 さて、「村祭」と「心の力」は千代紙製の切り絵で作られているのだが、「天狗退治」「ちんころ平平玉手箱」はセルアニメで、より自在な表現が可能となったらしい。結果、興味深いことに、身体破壊描写が増えている。そのいくつかを、ここでは「ちんころ平平玉手箱」から紹介してみたい。
 


 魚に襲いかかるカニ。



 カニたちは魚を、こんなふうに切り刻んでしまう↑。キャー、残酷!



 その結果、なんと魚はタコに変身させられてしまう。

 

 ちんころ平平のルックスは切り紙アニメ時代とはずいぶん変化し、アメリカナイズされている。このキャラクター、人格が安定せず、作品や場面によってイジワルだったり善良だったりするが、「玉手箱」ではおそろしく勝手な性格になっており、悪のかぎりを尽くす。
 


 海に潜った平平は竜宮城に入ろうとするが、魚でないため門番に追い出され、憤懣やるかたない。そこへ通りかかった一匹の魚。平平はその尾をつかむと……。



 ズボッ!!と下半身を引っこ抜いてしまう。骨格むき出しで放り出される魚。キャー!



 はぎ取った下半身を着込んで、みごと魚に化けた平平。竜宮城に向かいながら、被害者の魚に思い切りアカンベーをするのだった。性格悪すぎ。 
 こうした荒唐無稽な身体破壊描写は、「天狗退治」にもふんだんにみられる。この作品では、敵役のカラス天狗たちが主人公の団子兵衛らによってサクサク殺されていく。youtubeにあるので興味がある方はご覧になるといい。
 平平が活躍するこれらのギャグアニメはみな30年代のものだ。大藤の作風は戦後に大きく変化し、シリアスな作品が増えていく。色セロファンを使用した影絵アニメ「くじら」と「幽霊船」がこの時期の代表作だ。この二作はぼくの観た「日本アートアニメーション選集」には収録されていなかったが、「くじら」のほうはyoutubeで観ることができた。海難事故にあい、漂流する羽目になった生存者たちの醜い争いを描いた、暗い作品である。
 さてぼくは、大藤のアニメを観るうちに、一見かけ離れたものとの共通性に気付きはじめた。身体の破壊がもたらすブラックユーモア。極限状況で醜態をさらす人間たち。これってゾンビ映画やスプラッター映画がさかんに扱ってきたモチーフじゃないか。すると大藤信郎は、じつはホラー映画的な嗜好を持った人だったのかな……と最初は思ったのだけれど、もう少し考えてみると、これは大藤という個人だけの問題ではないようだ。
 アニメーションの原初的な魅力の一つに「メタモルフォーシス」がある、とよく言われる。ここでいうメタモルフォーシスとは、ようするに何かがクネクネと別のものに変形することだ。初期のアニメには、そうした面白みを追及したものがたくさんある。たとえばアニメーション創始者のひとり、エミール・コールによるこの作品。

http://www.youtube.com/watch?v=h_0B_H0FXv4

 有名なところでは「トムとジェリー」だってそうだ。あのアニメでも、トムの身体は変形しまくる。そして、こういうメタモルフォーシスの面白さっていうのは、そもそもスプラッター映画に近いんじゃないのか。じっさい「遊星からの物体X」や「ビデオドローム」は、まさしくメタモルフォーシス・ホラーとでも呼ぶべき映画だったし、「死霊のはらわたⅡ」や「バタリアン」には、「トムとジェリー」的な狂騒感がある。
 もっとも「トムとジェリー」は、暴力描写に満ちてはいるけれど、ギリギリのところでスプラッター化は回避している。トムの体はいくら変形しても元に戻るし、死ぬこともない。しかし大藤のアニメは、もっとスプラッターのほうに踏み込んでいる。切り刻まれてタコにされた魚たちはおそらく元の姿に戻れないし、カラス天狗たちは死んでしまうからだ。
 大藤以外にも、スプラッターとアニメーションの思わぬ親和性をうかがわせる戦前アニメはある。例えば西倉喜代治「茶目子の一日」のラストシーン。

http://www.youtube.com/watch?v=VNWqOUQH2Z8

 では、「くじら」にみられる人間の醜さを強調する描写と、ゾンビ映画などにみられるそれとの間にも、やはり大藤の嗜好のみには還元できないものがあるのだろうか。この点については、今のぼくにはまだ結論を出せない。
 最後にもう一つ、触れておきたいことがある。大藤のアニメはぼくに、ある作家について考えるヒントをもくれた。筒井康隆だ。
 ぼくは以前から、筒井のある点が気になっていた。彼の小説も、身体破壊ギャグと、人間のエゴイズムの醜さをしばしば描いており、スプラッター映画と共通する感性を備えているように思える。しかし筒井は、スプラッター映画が登場するはるか以前からそうした小説を書いていた。また、それらの映画に言及したこともないようだ(もっともこの点については、ぼくの知識はあてにならない。識者の見解を聞きたい)。すると、筒井文学とスプラッター映画は、まったく無関係に、似たような表現にたどりついたのだろうか?
 しかしアニメという補助線を引くと、事態はもう少し理解しやすくなるかもしれない。筒井は、「ベティ・ブープ伝」の著者でもあり、古典的なアニメに造詣が深い。彼の小説とスプラッター映画に親和性があるのは、両者のルーツの一つに古典アニメがあるからではないか。

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