2013年11月25日月曜日

宇野常寛の論争術――蓮實・浅田批判をめぐって

宇野常寛の批評は、内容がどうこう以前にそもそも文章として読むに耐えない。しかしそういうと、「お前の読解力が乏しいからだ」と批判されたりする。バカを言っちゃいけない。日本中を探しても、ぼく以上に宇野の文章をきちんと解読できる人間は多分一人もいないぞ。ためしに、ちょっと分析してみよう。
宇野は、『リトル・ピープルの時代(以下リトピー)』の序盤で、蓮實重彦や浅田彰を批判している。今回は、この部分を扱うことにしたい。
宇野はまず、蓮實らの思想を、次のように要約した。
                                           
引用部①――宇野による蓮實・浅田の要約

この「物語批判」的な想像力には、当時日本社会に出現し始めていた消費社会のイメージが重ね合わされていた。「都市」の洗練された空間では貨幣の、情報の、そして記号の「交通」が自動発生して、大きな物語を、あるいは封建的な制度によって規定された自己同一性を解体する―。(『リトピー』、p36

これが要約として正しいかというと疑問もあるけれど、本題ではないのでここでは追及しない。宇野はもっと大変なポカをやらかしていて、それに比べたら、要約が正確か否かなんて大した問題ではないのだ。
さて宇野は、論敵の意見を要約すると、次のように批判した。

引用部②――宇野による蓮實・浅田への批判

しかし、時代の潮流は蓮實たちを裏切り、春樹(注:村上春樹をさす)を支援した。冷戦終結はイデオロギー対立の時代もまた終わらせ、ビッグ・ブラザーの語る「大きな物語」を解体する必要を低下させた。いや、ビッグ・ブラザー自体が勝手に壊死していったのだ。/そして、ビッグ・ブラザーの完全な壊死のあとに訪れたグローバル/ネットワーク化は彼らが敵視した「田舎くさい」「村落の自己同一性」をも自動的に解体した。(『リトピー』、p37

 まず「ビッグ・ブラザー」という用語を説明しよう。宇野の議論は、東浩紀の大きな物語衰退論を踏まえている。「ビッグ・ブラザー」とは、もともとはジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』に登場する独裁者のことだが、宇野は『リトピー』で、この言葉を「国民国家を支える『大きな物語』を生む社会構造の比喩(p52)」として使っている。つまり大きな物語を作り出す存在が「ビッグ・ブラザー」で、それは消滅した、というのが宇野の主張なわけだ。結局のところ「大きな物語」はなくなったといっている点では、東とそれほどちがわない。
宇野は、引用部①では蓮實らの主張を要約し、引用部②でそれを批判したわけだが、では、彼自身の考えはどういうものなのか。『リトピー』の結末近くには、次のような記述がある。

引用部③――宇野自身の考え

人々は欲望の赴くままにビッグ・ブラザーの治世を謳歌し、消費社会を実現した。そしてこの消費社会の拡張がネットワーク/グローバル化を招来し自動的にビッグ・ブラザーを壊死させたのだ。(『リトピー』、p436

おや?この主張、引用部①の、蓮實らの主張を要約したものと、よく似ていないだろうか。
ためしに、引用部①と引用部③の内容を、よりわかりやすく整理してならべてみよう。

①――蓮實・浅田の要約

「消費社会」では、「貨幣の、情報の、そして記号の『交通』」が「自動発生」して「大きな物語」を「解体」する。

③――宇野自身の考え

「消費社会の拡張」が「ネットワーク/グローバル化」を招来し、「自動的」に「ビッグ・ブラザー」を「壊死」させた。

 「大きな物語」の「解体」と、「ビッグ・ブラザー」の「壊死」はだいたい同じ意味だ。また「貨幣の、情報の、そして記号の『交通』」と「ネットワーク/グローバル化」も、そうだろう。するとやはり、二つの主張は大差ない。
ちがうのは、前者が「解体する」と現在系で、後者は「壊死させた」と過去形である点くらいだ。もっとも宇野は、この文章で蓮實らを、八〇年代思想の代表としてとりあげているのだから、当時進行中だった事態が現在は完成しているのだと考えれば、ここもむしろぴったり符合してしまう。つまり宇野の意見は、批判相手の意見と全然変わらないのだ。
なぜこんなことになったのか。その理由は、引用部②と③の内容を整理して比較すれば、すぐにわかる。

②――蓮實・浅田の批判

蓮實らの考えとは異なり)「冷戦終結」ののち「ビッグ・ブラザー」は「完全」に「壊死」し、そのあとで「グローバル/ネットワーク化」が訪れ、「村落の自己同一性」を「解体」した。

③――宇野自身の考え

「消費社会の拡張」が「ネットワーク/グローバル化」を招来し、「自動的」に「ビッグ・ブラザー」を「壊死」させた(注1)。
 
 あれれ?引用部②では「ビッグ・ブラザー」が「完全」に壊死したのち「ネットワーク/グローバル化」がやってきたと述べていたのに、引用部③では「ネットワーク/グローバル化」が「ビッグ・ブラザー」を壊死させたと述べているぞ。順序が真逆だ。
 もうおわかりと思うが、宇野は蓮實らを批判するときだけ、自分の意見をこっそり変えて、ちがいを捏造していたのである。これはひどい。
 蓮實や浅田と宇野の主張が似ているのは、宇野が彼らから影響を受けているからだ。にもかかわらず、宇野はその彼らを、アンフェアな手口で騙し討ちにしているわけである。たとえるならこれは、人に道案内をしてもらいながら、用が済んだら相手を後ろから殴り倒し金品を奪って逃げるようなふるまいといえる。なかなかできることじゃない。
 しかしより深刻なのは、これほどフルスイングな矛盾でさえ、今までだれも指摘できなかった、ということだ。ここには、たんなる宇野常寛という一個人を超えた問題が含まれている。私たち人間の読解力は、自覚しているよりはるかに低いのだ。だから宇野のような、内容をイメージしにくい抽象的な文章の場合、ゴマカシがあっても容易には気付けない(注2)。
 しかし批評界では、この手のアヤフヤな文章を読解できて当然であるかのような認識が、今もまかり通っている。こんな文章は読めないと正論を述べても、読解力がないといわれるだけだ。裸の王様である。この状況を払拭できなければ、たとえ東や宇野が失脚したところで、似たような連中は次から次へと現れるだろう。


注1:箇所により「グローバル/ネットワーク化」と「ネットワーク/グローバル化」の二つの表記がみられるが、両者は同じものを指している。

注2:ぼくが宇野の矛盾を指摘できるのは、読解力が高いからではなく、ばかばかしいほどの時間を宇野を読むことに費やしているからである。冒頭に書いたことを繰り返すが、こんな文章は、本来読めなくて当然なのだ。

2 件のコメント:

  1. がんばってかみついてるけどホントパッとしないな

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  2. 引用部①を宇野による蓮實・浅田の要約とするのは間違いなんじゃ無いですかね。
    1,当時のポストモダニストは物語へ闘争に対して解体を支持した、2,そこに消費社会的なイメージがあった(①)、3,そして、村上春樹は田舎的な想像力として対置された、までが要約として必要だと思います。
    で、宇野の立場は、物語を解体する必要自体が無くなった社会がやってきた、春樹はその時代を先進的に書いてきた、というもの。
    「物語批判」的な想像力ではなく、その前提や春樹への評価が批判の要点ですね。

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